メッセージ

丹後には、
可能性が
あふれている。
置き去りにしない。

 「私の命、助けてくれて本当にありがとうございました。」
そう書かれたこの年賀状は、多重債務者の救済支援に取り組んでいた奄美市の市民課に送られたものです。持病を抱え、職を転々とする中で借金に苦しんでいた男性。自殺まで考えましたが、行政の取り組みで救われたのでした。
そこまで追い詰められて、本当に辛かったんだろうな。開放された時、本当に嬉しかったんだろうな…。それに対する感謝が溢れているこの年賀状を見ると、なぜかいつも、涙がこみ上げてきます。私も大変な時、いつもこの年賀状を見て「がんばろう」と思い直します。
これが、京丹後市でも「いのちを護る福祉」を本格的に取り組むきっかけになりました。当時、共に行動してくれた市役所職員の皆様に、本当に感謝しています。
前述の男性のように救われた人もいれば、残念ながら亡くなった人もいる。私は両親に恵まれ、大学にも行くことができ、今も生きていますが、それは本当に「たまたま」のことだと思います。今、生活できているのは、何気ないことのようで、実は奇跡ではないでしょうか。そういう意味では、自分も、亡くなる人も、「人」としては同じ。紙一重だと思うのです。
行政は「誰ひとり置き去りにしない社会」に向けて、できる限りのことをしないといけない。そういう思いが、私の根っこにあります。子ども達、市民の皆様の喜びと、丹後の未来の可能性のために、今後も活動していきたいと思います。
市長時代の反省。

私は平成16年から12年間、京丹後市長を務めさせていただきました。必死に努力したつもりでしたが、一方で私の市政は「京丹後のほうを向いていない。東京のほうを向いている」といった風に誤解されてしまうこともありました。
それは、森本工業団地や、200円バス、小中一貫教育、保育料の大幅削減、介護施設の整備、ウーバーなど…多くの事業を急ピッチで進めてしまったために、周囲の方と思いや方向性が共有できていなかったからかもしれません。市民の皆様、議会の皆様、市役所職員の皆様に理解いただきながら進めることができたか。恥ずかしながら、反省点が多いように感じています。
私は「人に伝えること」「人と思いを共有すること」が下手だと感じています。時には声を荒げてしまうこともありました。それでも自分は市民の皆様の「幸福」を中心に置いて活動している、と思っていました。しかし、それが伝わっていなかったとすれば、改善すべき点です。今、自転車で町を走っているのも「皆さんの身近に」いう思いからの行動ですが、これも十分には伝わってないのかもしれません。
私は4年間の民間の経験を経て「仕事は、一人ではできない」ということを、強く、身にしみて感じました。当時の職員の皆様に今、本当に感謝しています。今後は、一人で決めず、共に悩み、思いを共有して進めていきたい。それが今の思いです。

政策を理想で終わらせない。

私はこの4年間、人生で初めて「民間の人間」として仕事をしてきました。それまでは公務員として、市民の皆様のお役に立つ仕事をする、という意識で全力を尽くしてきたつもりです。しかし民間を経験し、まだまだ学ぶべきことがある、と痛感いたしました。その経験の中で改めて強く感じたのは、はたらく皆様、住民の皆様が、毎日を一生懸命生きておられる、ということの尊さと、迫ってくる実感。そして、次代を担う子どもたちの可能性を広げるためには、育つ環境、学ぶ環境を整えることが極めて大切だということでした。
私は「喜び」とともに「幸福」という言葉が好きです。住民の皆様の幸福を考えると、誰一人置き去りにできない。だからこそ私は、200円バスの時も、久美浜の原発拒否のときも、白か黒かという一方に偏った考え方ではなく、「関わる人、全員にとってよい結論」にこだわってきました。全員にとってにこだわることで、丹後の可能性がさらに広がるからです。
この幸福を実現するためには、私一人の力ではどうしようもありません。政策を、理想で終わらせないために、多くの方と力をひとつにし、実現していくこと。私は官僚時代、市長時代、実に多くの方から実際的な力をいただき、活動していました。そのことに改めて気づかせていただいた4年間でもあります。心からの感謝と共に、「人の幸福のため、お役に立ちたい」という原点に立ち返って、再度活動していく想いです。世界に誇れる、京丹後へ。